英彦山(1200m)


2005年6月19日  曇り  微風


今日は私達が住む福岡県を代表する山の1つである、『英彦山=ひこさん』 に登る事にした。

しかし、今日登る山は別に 『英彦山』 でなくても良かった。

家を出る直前まで、今日はどこの山に登るか決めていなかった。

今日登ってみようかと思う山の候補は3山あった。 どの山も自宅からの距離や所要時間も余り変わらず、今日はその中のどの山でも良かったのである。

それで、紙にその3つの山の名前を書き、『ど・れ・に・し・よ・う・か・な・・・・?』と、指で順に指していったら、『英彦山に登りなさい!』と

天神様のお告げがあったので、それに従ったまでである。



『英彦山』 の無料駐車場である 『別所駐車場』 に着いたのが10時55分。 50〜60台駐車出来る駐車場は既に満車だった。

駐車場をグルッとひと回りしたところで、ちょうど目の前の車が出て行き、その場所に入れ替えの様な形で何の苦も無く駐車できた。

私の後から続けて駐車場に入って来た3台の車はその後駐車場の中を2〜3回グルグル回っていたが、その内に諦めて駐車場所を探しにどこかに出て行った。

『今日はツイテる〜!』 と、私はニンマリしていた。







 写真の様な観光案内図のある 『別所駐車場』 を歩き始めたのは、11時5分だった。









ところで本日の山、『英彦山』 は大変歴史のある山である。 この山に付いて少しだけ概略を説明しておこう。

『英彦山』 は福岡県の南東部に位置し、山頂部の尾根は福岡県添田町と大分県中津市山国町との県境になる。

山頂部は北岳(1192m)、中岳(1188m)、南岳の三峰からなり最高峰は南岳の1200mである。

この山は、出羽(今の山形県等)の『羽黒山』、大和(今の奈良県)の『大峰山』、と並んで日本三大修験の霊場として栄え、

最盛期には800の宿坊と3000の衆徒があったと言われ、その勢力は九州全域に及んだそうである。



山の呼び方はいずれも 『ひこさん』 であるが、その表し方は 『日子山』 → 『彦山』 → 『英彦山』 と辿り、山中には神社や遺跡が多く、野鳥や植物の宝庫でもある。

植物としてはこの山域にのみ生育すると言われる 『ヒコサンヒメシャラ』 や 『ヒコサンザサ』 が名高い。



尚、この山からは 『岳減鬼山=がくめきやま=1037m』 や 『犬ヶ岳=1131m』、『求菩提山=くぼてやま=782m』 等にも縦走できる。

又、この山は以前は福岡県では一番高い山と思われていたが 『釈迦岳=1230m』 から 『御前岳=1209m』 に次いで第3位の標高である。

そして今年、登山家の岩崎元郎氏が選定された 『新日本百名山』 には、福岡県からはこの山だけが入っている。



ところで、今回の山行紀は趣向を少し変えて、登山道脇にある説明版を多用したいと思います。

その説明版を良く読んで御理解頂ければ、この山行記を読み終えた時には貴方はかなりの 『英彦山通』 になっていると思います。

 『別所駐車場』 から歩いて10分位で、写真の様な 『正面参道』 と呼ばれる登山口に着く。

 この山には子供とも一緒に登ったし、また子供の級友も連れ泊り掛けで数回山開きに参加した事もある。

 しかし9年前に子供と一緒に初めてこの山に登る時、『サー今から登るぞー!』 と私が気合を入れた掛け声を発して登り始めたとたんに、

 写真の階段の第一段目でオバさんがつまづいてコケてしまい、それを見て子供と大笑いした事があった。

 そして私は笑った拍子にその時噛んでいたガムを飲み込んでしまった。 それで今でも何かの事で 『英彦山』 の名前が出てくると、

 オバさんが1段目でコケた事と、あのガムはその後どうなったんでしょうね〜?等と、今でもその時の事を思い出して皆で笑っている。

 今日もその階段を登る時にオバさんの方を見てニヤリとしたら、オバさんは 『あの時は体調が悪かった!』 と言って笑っていた。





 写真の様な階段の参道を10分ほど登ると、『英彦山神宮・奉幣殿=ほうへいでん』 に着くが、

 その途中には下の様な 『坊跡』 等がある。












 階段部の上の方には私の好きな俳句の一つが刻まれた、杉田久女の句碑がある。
 こだま
 『谺して 山ほととぎす ほしいまま』




 階段を登り始めて10分程で 『英彦山神宮・奉幣殿』 に着いたが、『奉幣殿』 は去年の台風で被害を受け、現在修復中だった。

 この 『奉幣殿』 までは登山者よりも参拝者の方が多いが、登山者は写真の鳥居をくぐり、また階段の登山道を登って行く。











 鳥居下の階段を登った所に写真の様な案内図があり、登山道は分岐する。

 右の登山道を辿れば、『鬼杉』〜『南岳』〜『中岳』 のコースになる。














 私達は右の登山道は下山時に歩く事にして、登る時は直進する 『正面登山道』 を歩く事にした。














 『正面登山道』 には写真の様に鎖場も2〜3ヶ所?あった。













 しかし 『正面登山道』 は写真の様な階段部分が多くて結構疲れるが、登山道の両脇にあるかなり大きな杉の樹による木陰部分も多く

 そんな所で時々吹いて来る涼風がとても気持ち好く、疲れた心身を癒してくれる。













 登山道の途中には写真の様な野鳥の観察小屋が数ヶ所(下山時も含む)に設けてあった。














 案内板に紹介されていた野鳥には、

 オオアカゲラ、オオルリ、カッコウ、コノハズク、ブッポウソウ、ホトトギス、ヤマドリ等があった。












 この写真は5合目と言われる、中津宮である。











 写真は中津宮の説明版である。










 その後の登山道脇にはもう直ぐ見えなくなると思われる、写真の様な説明版もあった。

 そんな所を過ぎた辺りで、大きな昆虫採集用の網を持った人が下りて来るのが目に付いたので、

 『何か珍しいものが採れましたか?』 と聞いてみた。

 『今日は採れなかった!』 との事だったが、『この山にはどんな珍しい名前の昆虫がいるのですか?』 と聞くと、

 『アオ・#$%&@*!?☆』 と何の脈絡も無く、10回連続して言われても10秒も経てば絶対に忘れる様な名前が返って来た。

 それでその名前を覚える気をまったく無くした私は、『それは食べられますか?』 と応えてやったら、

 ワハハハーと笑いながら下りて行った。

 今考えると登山口の近くに 『九大生物研究所』 があるので、そこの方かも知れない?






 登り始めて1時間25分で写真の様に結構広い広場に着いた。
        むすび
 そこには 『産霊神社』 の建物とテーブルやベンチが設置されていた。











 写真は 『産霊神社』 の説明版である。










 その広場の反対側には写真の様な水場があり、浅い井戸でヒシャクで汲むようになっている。

 ここでは3歳の男児(ヒロキ君)と若いお父さんが水を汲んでいた。

 私達も冷たい水と入れ替えたりして5分ほど休憩する。








 その後の登山道も写真の様に石段が多く、木立ちも少なくなって木陰が無くなり辛い。 

 先ほど水場で会ったヒロキ君を背負って、若いお父さんが前を歩いていた。

 どこの山好きのお父さんも大変である。












 水場から15分程で中岳の山頂にある 『英彦山神宮・上宮』 に着いた。 登り始めて1時間40分だった。

 この建物も去年の台風でかなりの被害を受けたらしいが、ほとんど修復されていた。









 上の建物の裏は写真の様な広場になっており、売店や休憩所やテーブル・ベンチ等がある。

 休憩所の中や広場周りの木陰やテーブルでは50〜60名位の登山者が食事中だった。









 その広場の向こう側に写真の様な立派な山頂標識があるが、ここが英彦山の一番高い所ではない。

 ところで、この山頂に着いて思い出したのであるが、私達の住むこの地方では私の年齢より10〜20歳上の人達までは 『英彦講』 と

 呼ばれる 『講』 があった様である。 その 『講』 とは少年時代より年に何回か集まりながらお金を貯めていき、青年になった時に

 その 『講』 に入っている者全員で泊り掛けで 『英彦山登山』 をしたらしい。 そして、その 『英彦山登山』 を成し遂げた者だけが

 成人男子に成ったと見なされる、との話を子供の頃に聞いていた。 この風習は戦後もしばらくはあった様である。

 私の子供の頃は、それがどの様な事でどの様な漢字で書くのかも知らずに、私達はそれを 『ヒココ』 と言っていた事を思い出した。








 この写真は広場に設置してある説明版である。











 又、その広場の先にはトイレがある事を知っていた。

 そして以前、そのトイレを見た時にビックリした記憶があったので、そのトイレが現在はどうなっているのかを見に行く事にした。

 トイレは以前とは反対側の斜面に、写真の様に新しく綺麗に建て直されていた。







 トイレは斜面の上に水平な床があり、床には写真の様に穴が開けられている。 その穴の下は自然な山の斜面である。

 この新しいトイレは周りを板で囲み、周りからは見えない様になっているが、以前のトイレは入り口以外の周りは自然の立ち木や

 笹竹で囲まれていただけだった。 しかし、このトイレの設置に付いては現在も添田町との間でもめているとの事である。

 切実な問題であるだけに何か良い解決策は無いものだろうか! 他の山の対応策を参考にして、解決して欲しいものである!

 帰りに前のトイレがあった所は現在どうなっているか見たかったが、その場所はブッシュ化しており、

 そのブッシュを分けてまで見に行く勇気はとても出なかった。





 中岳には10分程いたが、私達は南岳に行く事にした。

 写真は南岳に行く途中に見えた中岳山頂部の景色である。 この位置からは右手の方に北岳も見えていた。






 中岳から10分で南岳に着いた。 山頂部は中岳に比べるとかなり狭い。

 この南岳が英彦山の最高峰であり、写真の様な石の社と一等三角点と小さな山頂標識があった。









 山頂部には休憩小屋があり、そこには高校の山岳部と思われる5人パーティが昼食中だった。

 その上には写真の様に展望台があるので、そこに登って景色を見る事にした。









 展望台にはそこから見える山の案内板があり、それには雁股山、大平山、鶴見岳、由布岳、九重連山、阿蘇山、釈迦岳、御前岳、

 三国山等の山名があったが、今日は写真の様に雲が多く、直ぐ近くの山以外は見えなかった。





 私達も小屋の前にあるベンチに腰掛けて昼食を食べる事にした。 1時を少し過ぎていた。

 写真はベンチの横にあった説明版である。

 食後のコーヒーを飲みながら小屋の中にいる高校生に話し掛けてみた。

 やはり高校の山岳部員で、高校名を尋ねたら聞いた事の無い高校名だったので、

 『知らないなー、何処にあるの?』 と聞いたらムッ!と来たらしく、

 『見といて下さい!、自分達があと2〜3年で全国的に有名な高校にします!』 と意気込んで言うので可笑しく、

 笑いを堪えながら 『ガンバレ!』 と励ましてやった。





 南岳で1時間近く休憩したので、予定通りに鬼杉経由で下山する事にした。

 この鬼杉経由の登山道は 『正面登山道』 の様に階段ばかりでは無く、写真の様に岩場が多く鎖場も数多くある。

 登る時にこのコースだと距離もある上にアップダウンもあり、この様な鎖場も多くて大変なのである。

 それで所要時間の関係も有り、私達は登る時はこのコースは選ばなかった。

 他にも 『英彦山』 の登山コースとしては、『高住神社』 から 『北岳』 を経由して登るコース等もある。

 その 『北岳』 を経由するコースは、今の時期は 『オオヤマレンゲ』 の花が咲いている筈でだが

 前回この山への登山時にそのコースを登っていたので、今回はそのコースは選ばなかった。








 下りる途中の開けた所(千丈ヶ鼻?)からは近くの山が見えたが、

 『岳減鬼山=がくめきやま=1037m』 や 『障子ヶ岳=948m』 辺りの様である。












 そこから少し下りた所には、写真の様な 『材木石』 が多い所を通る。
















 そして写真の様な分岐点に出た。

 この場所までは以前に子供と一緒に下りる時にも来た事がある。

 しかし 『鬼杉』 へはアップダウンもあり距離も長くなるので 今まで歩いた事はなかった。












 そこから 『鬼杉』 に向かう登山道は去年の台風で道が荒れている様で、写真の様な注意書きがあった。

 しかしそのコースは歩いた事が無かったので、今回はそのコースを歩いて見ようと思っていた。










 そのコースの途中には写真の様に、土石流による倒木で登山道が崩壊している所等があった。












 そして 『南岳』 を下り始めてから40分程で、写真の様な分岐に着いた。









 そこから 『鬼杉』 に下りていると、『異様』 と表現したら良いのか、『只者では無い』 と表現したら良いのか分からない、

 私と同年代と思える人が登って来るのが目に付いた。 挨拶を交わすとプーンとアルコールの臭いがした。

 私は笑いながら、『かなり飲んでありますね〜 臭いますよ〜』 と話し掛けてみた。

 そうしたらその人も笑いながら、『持って来たウイスキーは全部無くなりました〜』 と応える。

 それからその場所で3人で立ったり座ったりして、延々と70分ほど話す事になった。

 その話の内容には少し差し障りがある部分も有るので詳細を書く事は出来ないが、英彦山神社には古文書がかなり残っており、

 その人は或る人から頼まれて 『英彦山』 の山中に埋もれている遺跡等を探索しているとの事だった。

 だから私達の様に登山道を歩くのではなく、道の無い山中ばかりを歩き回って埋もれている遺跡等を捜している人のようである。

 毎週1回捜し初めて既に数年になるとの事で、『英彦山』 の詳細地図も見せて貰ったが赤色で何本もの直線が引いてあった。




 その直線の形は星型になっていて、五角形の或る一角だけが大きく伸びている地図も見せて貰った。

 しかし、その地図上の位置が何処に当たるのかは、私にはサッパリ分からなかった。

 この 『英彦山』 の山中にはまだ埋もれている遺跡が、かなり有るとの事だった。

 上写真はその人の後ろ姿であるが、尻の後ろに当てているのはタヌキの皮である。

 私はそれを写真で見た事はあったが、実際に着けている人を見たのは初めてだった。

 又、腰には写真のように山刀や水筒や皮製のバックを提げていた。 そして皮製のバックの中には色々と凄い

 ハイテク機器が入っていた。 そのハイテク機器の一部を紹介すると、左写真は精密コンパスである。




 左写真は超小型測量機器の様な物で、ある地点から自分が進みたい方向を常に示す物である。

 その他には自分が現在地図上の何処にいるのかを示す機器等も持って有った。

 そして、そんな機器の操作とか地図と関連させる見方も教わった。 又、そう言う風に道の無い山中を

 長年歩いている内、誰も知らない花の群生地も知っているとの事で、そんな場所で写した花の写真も十数枚貰った。 

 そんな話をしている内に呑み助同士はスッカリ意気投合し、来年のその花の時期には

 その場所まで自分が案内するから電話して下さい!と、電話番号と名前を書いたメモ用紙を頂いて別れた。






 その人と別れてから直ぐ 『鬼杉』 に着いた。

 『鬼杉』 は私が思っていたよりも大きかった。

 そこは 『鬼杉』 の周りを切り開いて広くなっており、その場所には東屋もあった。

 しかし先ほど会った人と1時間以上も話し込んでいたので、予定よりかなり遅れていた。

 それで、そこには5分程いただけで、直ぐ出発する事にした。








 『鬼杉』 からかなりのアップダウンを繰り返し、

 40分程で写真の様な 『玉屋神社』 に着いた。

 この場所はかなり広く、他にも建物があった。

 ここでは5分ほど休憩して直ぐ出発した。









 『玉屋神社』 から少し行った所には、写真の様に赤く熟れた野イチゴが

 辺り一面に沢山生っている所があった。

 綺麗で良く熟れている物を2〜3個採って口に含む。

 甘酸っぱい味がして、2番目の初恋の人?? なんぞを思い出す。








 そこから少し進んだ所には写真の様に開けた所があり、谷向こうの稜線が見えた。












 そんな所の斜面には写真の様に 『マタタビ』 が花を咲かせ、既に小さな実を沢山付けていた。











 その後も小さなアップダウンを繰り返して 『玉屋神社』 から40分程?で、『奉幣殿』 の屋根が見える所に出た。








 左写真は 『奉幣殿』 から下りる途中の階段脇にあった、まるで私達夫婦みたいに仲睦まじい 『夫婦杉』 である。

 そんな石の階段を下りていると、二人の若い女性が疲れた様相で登って来た。

 そして 『奉幣殿まであとどの位有りますか?』 と、息を切らせ疲れた表情で聞いて来た。

 二人の足元を見ると、何と!踵の細いハイヒールを履いていた。

 それで、『あと2Km程あって1時間位は掛かるかなー?』 と言ってやったら二人で、『どうしようかー?』 等と相談し始めた。

 それで私が慌てて、『ウソ!ウソ!、あと5分位で着くよ!』 と言ったら、笑いながら登って行った。

 駐車場に着いた時は、もう6時に近かった。






今日の山歩きをまとめると、

          『別所駐車場』〜(20分)〜『奉幣殿』〜(65分)〜『産霊神社』〜(15分)〜『中岳』〜(10分)〜『南岳』〜(40分)〜

                           『鬼杉最終分岐』〜(5分)〜『鬼杉』〜(40分)〜『玉屋神社』〜(55分)〜『奉幣殿』〜(25分)〜『別所駐車場』

          合計登山時間は4時間35分(昼食休憩と遺跡探索者と話した時間は含まず)で、万歩計は19944だった。



家に帰り、風呂から上がってビールを飲みながらテレビのニュースを見ていたら、今日は 『父の日』 との事で、その様子を放映していた。

私はそれを見てニンマリした。 早速、オバさんと 『父の日』 のプレゼント交渉に入った。

若干の議論はあったが、私は 『父の日』 のプレゼントとして見事にビールをあと1本貰ったのだった。(メデタシ! メデタシ!)

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